神社記、平山氏家記、鳥飼若八幡宮縁起、筑前国風続風土記、太宰管内誌その他の古記に、鳥飼八幡宮の成り立ちが記されています。
神功皇后が新羅より凱旋し姪浜に上陸され、夜になって鳥飼村平山というところにお着きになられました。この時、その村長はじめ鳥飼氏一同が夕の御膳を差し上げたところ、皇后はたいへんお喜びになり胎内の皇子(後の応神天皇)の将来を御祝いして、近臣等に自らお酒を勧め、この地にお泊りになられました。後に村長になった人物の子孫が神功皇后ゆかりの地に御社を建てて、「若八幡」と名付けて祀ったのが鳥飼八幡宮の発祥と伝えられています。
神社は代々鳥飼氏が奉祀していましたが中世以降、戦乱の時代になると香椎宮大宮司の武内氏の支族を招いて社職を司らせました。
南北朝後、醍醐天皇の時代(14世紀)に菊池武光の軍が北條英時を攻めた際にこの鳥飼の地が戦場となり、戦火によって社殿は炎上しました。神職平山式部少輔宗重御神体を持って避難しましたが、旧記、古文書、宝物類はことごとく焼け失せてしまいました。
その後再建され、祭も滞りなく執り行われていましたが、天正の時代(16世紀)御笠郡四王寺山岩屋城主の高橋紹運が率いる軍に夜襲をうけ、この不意打ちに鳥飼宮内・少輔氏勝父子が応戦しましたが、この戦いで討死しました。この際戦火によって社殿が再び焼失し、年中行事の祭典も途絶えてしまいました。
その後慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでの軍功により黒田長政公が筑前の国主となり福岡城を築き、慶長13年(1608年)に鳥飼村八幡宮御社地に長政公の別邸を建てることになり、鳥飼浜松林の中(現在の鎮座地)に仮宮を建てて平山式部丞重道が八幡宮を遷し祀りました。
その後寛永2年(1625年)鳥飼氏氏子により新たに神殿を建立し、正遷宮を行いました。この拝殿は重道が自力で建立し、古宮付近の土地を「茶屋の内」または「茶屋の山」と呼ぶようになりました。鳥飼村の氏子たちは祭典が途絶えてしまっていたことを嘆き、寛永18年(1641年)から再びさまざまな祭典を行うようになり、これは今日でも途絶える事なく続けられている「宮座献饌祭」といわれています。
鳥飼八幡宮に御供を祀るため、古くからの習しに従い藁の包みに入れ精進潔斎をして供進するのですが、その通路にあたる鳥飼~八幡宮に至る間の道は「御供道」と呼ばれました。現在の鳥飼3丁目埴安神社横より西町公園に至る小道がそれにあたります。
明治35年には、旧社地に福岡女子師範学校が建設される事になり、その校内に入り、大正12年5月に有志が若八幡移転跡地に「神功皇后御駐輦の跡」と記した石造の記念碑を建てました。こちらは現在の福岡市立南当仁小学校裏門前県営住宅のなかにあります。

| 鎮座地 | 福岡市中央区今川2丁目1-17 |
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| 御祭神 | 中殿 応神天皇(おうじんてんのう) 文化の神・厄除けの神 左殿 神功皇后(じんぐうこうごう) 子安の神 右殿 玉依姫尊(たまよりひめのみこと) 縁むすびの神 |

| 御祭神 | 大物主大神(おおものぬしのおおかみ) 航海・交通安全の神 崇徳天皇(すとくてんのう) |
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| 御祭神 武内大臣(たけうちおおおみ) 延命長寿の神 鳥飼黒主(とりかいくろぬし) 鳥飼氏始祖 |
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| 御祭神 菅原道真公(すがわらのみちざねこう) 学業の神 倉稲魂命(くらいなたまのみこと) 農耕の神 ※合祀 |
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| 御祭神 八重事代主神(やえのことしろぬしのかみ) 商売繁盛の神 狭依姫神(さよりのひめかみ) 美容の神 ※合祀 |
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| 御祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ) 相撲の神 経津主神(ふつぬしのかみ) 武芸上達・勝利の神 塩土翁神(しおつちおうのかみ) 料理の神 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 教育の神 ※合祀 |
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| 病気、けが等自分の体の不調な部位と「なでうし」の同じ部位をなでる事で病気平癒の効果あるといわれています。鳥飼八幡宮境内末社、天満宮右殿に鎮座されています。 |
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| 鳥飼八幡宮社務所前に鎮ります千年蘇鉄は、神功皇后の従者であられた武内宿禰が旅の安全と神功皇后の「胎内の御子」の無事なご出産を祈願されたこの地より蘇鉄が生えた、と伝えられています。 このことにより、願い札に祈願し蘇鉄の葉に下げると願いが叶う、と厚く信仰されています。 武内宿禰が400年生きたという伝説からこの蘇鉄のところで長寿を願うと長生きできると伝えられています。 |